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こんばんは。

成田山新勝寺 に着きました!
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総門
2008年に建てられた総門は、高さ約15mの堂々たる姿です!

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成田山金剛王院新勝寺 が正式なお名前なのかな?

成田山新勝寺は平安時代中期に起きた平将門の乱の際、939年(天慶2年)朱雀天皇の密勅により
寛朝大僧正を東国へ遣わしたことに起源を持つ。
寛朝は京の高雄山(神護寺)護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて東国へ下り、翌940年(天慶3年)
海路にて上総国尾垂浜に上陸。
平将門を調伏するため、下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行った。
新勝寺はこの天慶3年を開山の年としている。
乱平定の後の永禄年間(1566年(永禄9年)頃と考えられるが未詳)に成田村一七軒党代表の名主が
不動明王像を背負って遷座されて伽藍を建立された場所が、現在の成田市並木町にある「不動塚」周辺と
伝えられ成田山発祥の地と言われている。
「また新たに勝つ」という語句に因み新勝寺と名づけられ、東国鎮護の寺院となった。
その後、新勝寺は戦国期の混乱の中で荒廃し、江戸時代までは寂れ寺となっていた。

江戸時代には、江戸(征夷大将軍の城下)でたびたび成田不動の「出開帳」(現代の語感でいえば、
「秘宝特別公開」)が行われた。
1703年(元禄16年)、深川永代寺(富岡八幡宮の別当寺で、廃仏毀釈により廃寺になったが、
塔頭寺院が1896年(明治29年)名跡を再興した)で行われたのが初めで、江戸時代を通じて12回の出開帳が
行われた記録がある。
歌舞伎役者の市川團十郎が成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居を打った
ことなどもあいまって、成田不動は庶民の信仰を集め、成田参詣が盛んとなる。

明治維新以降、新勝寺はお札を通じて、民衆の戦争に深く関わった。
当寺の「身代わり札」は「鉄砲玉から身を守る札」として日清戦争当時から軍人らに深く信仰されていた。
満州事変から1945年の敗戦に至るまで、「成田市史年表」から拾い出すだけでも、33年から41年までの間に
歩兵第57連隊の兵士や近衛兵たちが10回以上も参拝し武運長久を祈願、お札を身につけている。
18代住職荒木照定は1928年に新更会を設立、「成田町報」などを通じて地域の民衆に対する「皇国伝統の健全
なる思想」の教化に積極的に努めた。
1938年には陸海軍に「新勝号」「成田山号」と名づけた戦闘機を献納、また真珠湾攻撃の翌日にはそれぞれに
10万円を献納するなど新勝寺は積極的に戦争推進に加担し、同時にそれを布教活動に利用していた。
(ウィキペディアより)

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扁額には「成田山」と・・・

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立派な門をくぐり、お参りさせて頂きます。

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仁王門と大きな提灯が見えます!

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手水舎で清め

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石段を上ると、仁王門です、1830(文政13)年建立、重要文化財。

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近くに行くと、巨大な提灯に圧倒されます!
中央の「魚がし」の文字が大きく目立つ大提灯は、魚河岸講の奉納。

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その重さ、ナント!800キロといわれているそうです!!

なぜか、この提灯が気になった私
何か記念になる様な事ないかな~・・・
ありました!(笑)
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提灯の底に
こんな「昇り龍」が隠れていました!
地面にしゃがみ込んで写真を撮っているのは、私だけでしたが・・・
宝物を見つけた様で、とても満足している私でした! (← 変人?)

日光の極彩色に彩られた彫刻とは逆で
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地味ですが、仁王門にもたくさんの

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彫刻が施されていて、目を惹かれました!

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あっ!木鼻


つづく



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